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2005年10月31日

「そうです、ナタリー」 谷間の百合 -その4-

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さてさて、今回は「谷間の百合」第3章に登場するアラベル・ダドレー夫人について、少々申し上げてみたい。まずは簡単な状況説明から。

アラベルは英国の貴婦人で、地位も高く、パリの社交界で権勢をふるっている。金持ちで、超美人で、才気も体力もあるものだから、手に入らないものなんて何も無い。全てが思いのままである。世の中はアラベルを中心に廻っているのである。ある日アラベルは、フェリックスとアンリエットの純愛物語を小耳に挟み、興味を持つ。彼女の性格からすれば、あちらこちらのサロンで見かけるフェリックスの恋物語に興味を持つのは、ごく自然なことであった。彼女の才気を発揮し、虚栄心を満たしてくれる舞台が用意されたのだから・・・・・・

「あのキジバト同士の溜息には、私、もううんざりしておりますの」
(第3章 新潮文庫版 297p)

「キジバト同士」というのはフェリックスとアンリエットのこと、「溜息」というのはふたりの騎士道的で、プラトニックな恋を差すわけだが、それはアラベルが持ち得なかったものなのである。アラベルはアンリエットに嫉妬したというよりも、ふたりの純愛関係に嫉妬し、アンリエットとの仲を引き裂き、フェリックスを落とすことに自分の名誉をかける。同時に自分の貞操を捨てることで慣習に逆らって、世間をあっと言わせることができることが、彼女の情熱を更に掻き立てるのであった。

女性諸姉!アラベルの次の台詞に注目!気の弱い青年はイチコロでしょう(笑)

「いつまでもあなたのお友だちでいて、お好きなときだけ、恋人にしていただきますわ」
(第3章 新潮文庫版 298p)

まあ、こんな感じでフェリックスは自分の召使まで丸め込まれ、ついにアラベルに攻略されてしまう。それがバレてアンリエットの信用を失うが、恋愛について客観的に考察出来るようになる。

「愛人の満たしてくれる恋には、おのずからその限度があります」
(第3章 新潮文庫版 303p)

「身体を許しあわぬ恋は、かえって欲望を激しくかきたてるがために持続するのです」
(第3章 新潮文庫版 325p)

更に、ニキータ編集部が喜びそうなことも言っています。男性諸君は要注意!

「この世には、自分たちが抱く嫉妬心を、天使のごとき優しさのかげに、たくみにかくしおおすことのできる女性もいます。それはみなダドレー夫人のようにすでに三十をこえた女性たちです」
(第3章 新潮文庫版 303p)

アラベルは自分の才気を発揮する舞台が無いと生きていけないような、非常に虚栄心と自己愛の強い女である。フェリックスに身を捧げるのも、見かけ上はアンリエットよりも多くを犠牲にしているように演出するためなのである。アラベルに共感できないのは、金持ちで超美人で頭が良くて運動神経も抜群ということでも、男女間の道徳に反することをしていることでも無い。虚栄心を満たすために男を落とすということでも、恋愛をゲームとして捉えていることでも無い。何かしら人間性を貶められているような気がするのである、アラベルに・・・・・いつかじっくりと考えてみたいと思います。このシリーズは今回で終わりです。

最後に「谷間の百合」読んで思い出した言葉を引用しておきます。

「恋愛は幾らかの未来を要求する」 (”ペスト” カミュ)
「人間は正しい人の堕落と恥辱を好む」 (”カラマーゾフの兄弟” ドストエフスキー)

関連記事
「そうです、ナタリー」 谷間の百合 その1
「そうです、ナタリー」 谷間の百合 その2
「そうです、ナタリー」 谷間の百合 その3

今日の写真 ~カラフル その8~
亀戸のサンストリートです。最近はやりの大型ショッピングモールなのですが、空間的に様々な工夫が見られます。吸い込まれるようなアプローチや路地的な要素などなど、意外に面白いところですよ。

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2005年10月27日

「そうです、ナタリー」 谷間の百合 -その3ー

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谷間の百合」を読んだときに最初に思う疑問は、
「人妻だからって自分の貞操を守り続けながら若い男に永遠の愛を誓わすことができるだろうか?」
「プラトニックな関係を強要したのはアンリエットなのに、フェリックスがアラベルの誘惑に負けて浮気をしたからって、それを責めて、ハンガーストライキを起こして死んだりするだろうか?」
ということであろう。まあ、どうやらこれは女の論理のようである。男には大変わかり辛い。

しかし、次の論理は女性にわかり辛いかもしれない。男が浮気をしてしまうのは、社会的要請である、むしろマナーなのだとフェリックスは言っている。男性諸君!次の台詞を丸暗記し、来るべき修羅の日に備えておくべし(笑)

「あなたがた女性が男の追求をのがれようとする場合にくらべると、われわれ男が女性の誘惑をしりぞけようとする場合の方が、許された手だてがずっと少ないという事実です」

「世の風習から、私たち男には女性の誘いをむげにはねつけることが禁じられています」
(第3章 新潮文庫版 297p)

事実とか風習とかいう言葉を使うことにより、浮気はプライベートな現象ではなく社会・文化現象であると言って、大局的な問題にすり替え罪を薄めているのでしょうか?

また、生物学的性質であるとも言っています。これも男性諸君はそらんじておきましょう。

「自然の力をごまかしつづけるわけにはいきません」
(第3章 新潮文庫版 326p)

その1でも取り上げましたが、

「ただ砂漠のなかでのどが乾いただけなのです」
(第3章 新潮文庫版 326p)

自分の浮気の原因は、ホモ・サピエンスという種のDNAに組み込まれた性質や仕組みであって、個人の意識で制御できるようなものではない。だから、しょうがないよね、と言うのである。フェリックス君は大変賢い。スゴイ理論を考え出してくれました。まあ、女性には通じない理論かもしれませんが・・・・むしろ女性を怒らせるだけのような気もします(笑)

次回こそ、ダドレー夫人の性格を分析してみたいと思います。

関連記事
「そうです、ナタリー」 谷間の百合 その1
「そうです、ナタリー」 谷間の百合 その2
「そうです、ナタリー」 谷間の百合 その4

今日の写真 ~カラフル その8~
京都駅のおみやげ売り場で見かけたアメ玉?です。月初めに京都へ行ってきたのです。当初は東山に宿を取り、周辺散策のみをするつもりでしたが、御苑の宮内庁事務所に行ったところ、桂・修学院離宮の見学に空きがあり、参観!ラッキーでした。

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2005年10月12日

「そうです、ナタリー」 谷間の百合 -その2-

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谷間の百合」・・・・・なんとなく田舎臭い、牧歌的な印象すら与えるこの小説の題名には、洗練の極みを身につけた著者バルザックがフッと半生を顧みているような、郷愁を感じさせる。意図的にシャープさを欠いた謙譲表現かもしれない。邦題がそのように思わせるのだろうか・・・・・・

さて、前回の記事では、主人公フェリックスが私達(男性)の気持ちを代弁してくれている箇所を抜き出してみた。今回は彼が愛した「谷間の百合」アンリエット(モルソフ夫人)とはどんな女性なのかを考察してみたい。まず私がこの小説を読み始めたときのアンリエットに対する率直な(子どもモードの)感想。

『身体どころかキスさえ許さずに男を留めるとは、冷淡な女だ』

ところが読み進めるうちにアンリエットはフェリックスの求愛を拒んでいるのではなく、むしろ受け入れ、自分の気持ちを押しとどめていることがわかってくる。なぜ押しとどめているのか?トルストイの「アンナ・カレーニナ」の主人公アンナを取り上げながら比較・考察を試みよう。アンリエットもアンナも美しい人妻で、夫を愛しておらず、若い男に求愛されるという3点が共通項である。

アンナは非公式に夫と別れ、ウローンスキイと一緒に夫婦のように生活した。
結果>>ふたりとも世間からはじき出されてしまう。ウローンスキイは出世の道をたたれる。ふたりの間に生まれた子供も夫に取られてしまう。将来に希望を持てなくなったアンナは自殺する。

アンリエットはフェリックスと彼女の夫も認める公式な友人関係にあった。
結果>>いつでも会(逢)える関係。そしてアンリエットの口添えで、フェリックスは社交界で出世の糸口を掴んでいく。しかしフェリックスはアンリエットを裏切り、彼女とは正反対の性格のダドレー夫人と関係を結ぶ。アンリエットはショックで病気になり死ぬ。

公式非公式。たとえ同じ行動をとったとしても両者は大きく異なる。この社会的意味と差異をようやく私が認識したのは数年前だ。それに気が付いてやっと、トルストイがなぜ美人で性格も頭も良いアンナを自殺に追いつめて描いたのかがわかった。宗教心や道徳心から『不倫をしてはダメですよ』と言っているわけではないのである。かと言って『不倫は社会に認められないからオススメしませんよ』と言っているわけでもない(と思う)。

恋愛とは社会的行為の最小単位と言えると思うが、その中だけでふたりの行動が収まるなら、『幸せ』になれるだろう。そうはいかないことをアンナは理解はしていたが実を求めた。しかしアンリエットはもし実だけを求めれば、お互いの社会的立場(義務というよりも自分がなぜここにいるのかを理解し、それを大切にする気持ち)だけでなく、心も変化していってしまう人間の性質がわかっていた。そして心変わりを怖れた。フェリックスは『砂漠』で『乾いた喉を潤して』しまったが、心は離れていくことはなく、アンリエットは死んでも、フェリックスの心を掴み続けることに成功したのである。

貴女はどちらに共感します?アンナ?それともアンリエット?
次回はダドレー夫人を取り上げます!

関連記事
「そうです、ナタリー」 谷間の百合 その1
「そうです、ナタリー」 谷間の百合 その3
「そうです、ナタリー」 谷間の百合 その4

今日の写真 ~カラフル その7~
日本と同じ人口密度のフェルガナ盆地はコーカンドの電話局。窓口に並ぶ人たちのカラフルな服装!

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2005年9月30日

「そうです、ナタリー」 谷間の百合 -その1-

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4ヶ月ほど前、「谷間の百合」(バルザック著)を読んだ。

読む気になったきっかけは「夜霧の恋人たち」(>>関連記事)である。この映画の冒頭で主人公アントワーヌ(ジャン・ピエール・レオ)が牢屋の壁に寄りかかって、「谷間の百合」を読んでいるシーンがある。映画のストーリーを予感させるカットなのだろうが、知らなかったので非常に残念に思った。そこで「トリュフォーが取り上げているんだからきっと面白いに違いない」と思い読んでみることにした。

この小説は主人公フェリックスが自分の恋の経歴を「聞きたい!聞きたい!」とナタリーという恋人候補がせがむので、しょうがなく打ち明け話をするという設定なのだが、本当はフェリックスがナタリーに聞いてもらいたい、むしろ聞かせたいのである。それでもって普通女性には話してならない内面的なことまでナタリーに聞かせ、ウンザリさせてしまうというお話なのである。ただそれ故に私にとっては青春時代に疑問に思っていたことやぼんやりと感じていた事柄のフォーカスがはっきりとして、非常に(仕事にしても恋愛にしても)ためになりました。スタンダールの「赤と黒」を7年前に読んだとき以来の心に残る小説でした。

さて、この作品は古典文学作品である。古典文学をあまり読まない人も興味を持っていただけるように、非常に偏った見地から考察していきたいと思う。小説前半(あくまでも前半のみ)は病的なまでのプラトニック・ラブで退屈してしまうかもしれない。なぜなら何の描写(ここで「描写」とは極めてプライベートな行為を指すことにする)も無い。小説の前半で唯一直接的な「描写」はフェリックスがモルソフ夫人=アンリエットの背中に接吻するシーンだけで、その後アンリエットはフェリックスを精神的には受け入れながらも、身体的には手を取ることしか許さないという徹底振りで、何の(エロス)期待もできない。しかしトリュフォーが主人公に読ませたほどの小説なのだから理性的な建前だけでない何かがあるはずだと思い、私は何か(エロス)を期待しながら読み進んでいった。そうしたら、そっち方面の名言が溢れていたので、私はうれしくなった。読者の方々もそちらの方面への興味なら少なくないと思われるので、フェリックスの台詞から特にそういった箇所のみを抜き出してみよう。

まず、それを予感させる文

『私たち男に愛されている女性の特権は、何ごとにつけても私たちに、良識の掟を忘れさせてしまうことにあるのです』
(序章第1行目)

恋は、道徳も法律も紳士協定も通じない世界であると、事前に断りを入れておいて、これからの暴露話で自分が非難されないようにしているのですな。

バルザックはモデル体型が好みだったようです。

『私が丸い身体つきより、平たい身体つきに軍配をあげるとしたら、あなたはお気をわるくなさるでしょうか』
(第1章 新潮文庫版 49p)

このあとにかなりの偏見発言があります。

『前者よりも後者のほうがより女であると言えましょう。平たい身体つきは、しなやかで柔軟さに満ち、丸い身体つきは柔軟さに欠け、嫉妬深いのです』

お断りしておきますが、僕が言っているのではありません。バルザックがフェリックスを通して言っているのです。

擦れた男性諸氏は共感度大かも?

『年を経るにしたがって、私たちは、女性のなかの女性だけを愛するようになるのです。ところが初恋の女性の場合には、その女性のありとあらゆるものを愛するのです』
(第2章 新潮文庫版 137p)

まだ擦れる前の純なフェリックス君はこんな感じでした。

『彼女がごくまれにしかその手にゆるさせてくれぬ接吻に、おのれのすべてをあまさずそそぎこむことができるほど若かったのです』

世のすべての男性諸氏が共感度大!

『なぜ肉体はそのつぶやきをやめようとしないのでしょう』
(第2章 新潮文庫版 141p)

とフェリックス君はぶつぶつつぶやきながら「官能の花束」をアンリエットにプレゼントして、彼女を恥ずかしがらせたりします(笑)。花の名前は唱えるだけでエロスを感じさせます。非常に高度な技術ですね。

NHKの「名作平積み大作戦」でも取り上げていた問題発言!

『僕は決して愛したのではありません。ただ砂漠のなかでのどが乾いただけなのです』
(第3章 新潮文庫版 326p)

フェリックスがダドレー夫人と関係を持ってしまったあとで、アンリエットにする言い訳。旨い台詞だとは思いますが、こんなこと言われたら女性は怒りますよねぇ。実際アンリエットも「砂漠でですって」と絶句しています(笑)。ちなみに「砂漠」とはパリの社交界のことなのでした。よくもまあ、こんな比喩を思いついたものです。

次回はもう少しマジメに考察したいと思います。

関連記事
「そうです、ナタリー」 谷間の百合 その2
「そうです、ナタリー」 谷間の百合 その3
「そうです、ナタリー」 谷間の百合 その4

参照記事
虚偽的恋愛生活 >> 愛しのフェリックス

今日の写真 ~カラフル その6~
どうもカラフルな写真は外国が多いようです。今回はモスクワは赤の広場にあるカザン聖母聖堂の内部。他のロシア正教の建物に比べるとパステル・トーンでかわいらしいです。

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