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2005年2月15日

雑草の写真

雑草
昔、まだ自分が建築設計でやっていくかどうか迷っている頃、建築会館で開かれていたセミナーの設計課題で、「自然を発見する家」というテーマが出題されたことがある。文字通り、「自然を発見する家」を設計せよという課題である。コンセプトをまとめていく過程で、受講者はまず「自然」を感じるものや現象をサンプリングし、各々プレゼンテーションを行った。

美しい幾何学の自然がある

  • 雪や鉱物の結晶。
  • 蜂の巣のハニカム。
  • 花。

人工物との対比で感じる自然がある

  • 川原で拾った角のとれた色ガラス片。
  • 木の根に食われかけたアンコール遺跡。
  • 菓子にたかる蟻。
  • 石鹸で洗っても落ちない魚のぬめり。
  • 廻る風車や水車。

タレルの「ブルー・プラネット・スカイ」もこれにあたる。

記憶の中の自然もある
例えば、香港の高層ビル街に住むベトナム人が自然を感じる唯一のときは、カフェオレを飲むときかもしれない。きっと郷里のメコンの水(カフェオレ色)を想い出させるからだ。

妄想の自然もある。
これはメディアによって日々仮想体験している。
例えば、南極、サハラ砂漠、アルプス山脈のようにテレビや雑誌でしか見れないような極端な地域の自然である。これこそ自然だと思っている人は多いのではないだろうか。しかし、これは非常に限定された自然なのである。

考えれば考えるほど「自然」とはとらえどころがなく、その姿がぼやけてしまう。また感じ方は人によって違うのである。

そこで私は、身の回りにあって人がコントロールできない現象を「自然」と限定して探してみた。地球の自転公転、日光、天気をのぞくと、郊外の住宅地には以外と「自然」は少ない。鳥、虫、雑草くらいであった。

その中から雑草を取り上げて、調べてみることにした。

雑草は、農業をされている方からみれば、全く迷惑なものである。雑草のためにものすごい金と労力を費やしている。そして私たちは田畑で収穫される農作物の恩恵を受けている。人間からみると不必要であり、存在しないほうが望ましい。

その一方で、雑草は、その土地の本来の植生へ戻すための斥候のような役割を持つ。ナウシカに出てくる腐海のような役割があるのである。もし何も生えていない土地があれば、最初は背の低い雑草が生えてくる。それからススキなどの背の高いものへと遷移し、雑草は低木に取って代わり、更に高木へと次第に大型の植物に変化していく。そして日本の場合、最終的に森になってしまうのだそうだ。ならば雑草を抜くということは、大げさに言うと、未来の森を破壊していることかもしれない。

それを知ってから、道路のひび割れや、縁石やブロックの隙間など、環境の悪い場所に生えている雑草を見ると、生命力の強さやしたたかさだけでなく、明らかに将来森林になる可能性もないのにチャンスをうかがうその姿勢に宗教的な感動を覚えてしまうのである。

そんな想いで、雑草の写真を撮っている。

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カテゴリー:写真 |  コメント (6) |  投稿者:hyodo

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