『映画』 の記事

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2008年6月7日

デカローグ 1話、2話

旧安田庭園

キェシロフスキの作品「デカローグ」1~10話(1988年/ポーランド)が、私の地元川口市メディアセブンで、6月に順次上映されている。昨日は1話、2話の上映があり、観てきた。入場無料で、80席ほどの席は8割程度埋まっていた。

この作品はモーセの十戒をテーマとした10のエピソードからなる、ポーランドで放映されたテレビ映画である。舞台は、郊外の集合住宅群。その集合住宅のあり方や避難階段、廊下、エレベータなどが日本のものとだいぶ違った感じで面白い。

いつの発言かはわからないが、キューブリックが「この20年でこの20年で1本だけ好きな映画を選ぶとすれば、間違いなく『デカローグ』」と言っているらしいので、それだけでも興味をひかれる。私は、10年ほど前に観たキェシロフスキの「トリコロール」3部作「白の愛」が(ジュリー・デルピーも含めて)印象に残っていたので、観たいと思った。

第1話 ある運命に関する物語
大学講師のクリストフは科学的認識がこの世の全てであると考えていて、神を信じない。彼には別れた妻との子どものパヴェルがいる。クリストフの姉はカトリックの信者で、神を信じ、その存在を感じている。パヴェルは父と叔母に愛されている。ある日、パヴェルが、スケートをしているときに、池の氷が割れて落ち、死ぬ。クリストフは教会に行き、祭壇を破壊する。祭壇から落ちた桶の氷を額に当て、嘆き悲しむ。

このストーリーはいろいろと疑問が残り、どう解釈したらいいのだろうか?と思った。というのは、一見、「クリストフは神を信じないから、その罰として、息子パヴェルを奪った」ように見えるからだ。しかし、姉は神を信じており、どうやら子どもがおらず、甥パヴェルを世話し、愛しているのだから、彼女の希望を奪う必要はないだろう。

そもそも神の意志は人間には計り知れないのだから、今私が述べたような感想こそが神に対して不遜であるともいえるが、さらに言うならば、そんなに神が偉大であるのなら、人間の自立した意思が、神の否定を可能にするようにプログラムするだろうか?となる。しかし、そのような考え方は傲慢なのだ。神とサタンの気まぐれにより幸福を奪われたヨブのように、ひたすら信じるしかないのだ。

第2話 ある選択に関する物語
ドロタには、重病で死の淵をさまよっている夫がいる。彼女は、夫の親友と不倫をしており、妊娠している。彼女はもう若くなく、この妊娠は子どもを産む最後のチャンスだと考えている。彼女は、夫が死ぬなら子どもを産み、夫が回復するなら堕胎しようと考え、戦争で家族を亡くした主治医に、夫は死ぬのか治るのかを執拗に訊ねる。医者は「死ぬ」と答え、ドロタは子どもを産むことにするが、夫は回復し、医師に子どもの生まれることの感謝の意を述べる。

1話に比べると、疑問は少ない。なぜなら誰にも死は訪れず、ドロタの希望と反する状況に、事態が変化していくので、宗教的規範が揺らがないからである。しかし現代社会においては、堕胎の自由がある程度認められているし、政治的には女性運動とも絡んできそうなテーマである。そこまで考えなくてもドロタに同情する女性は多いと思う。

今日の写真
両国駅近くにある旧安田庭園です。打合せの帰りに、お土産でいただいた長命寺の3枚の葉の桜餅で一服しました。飛び石が水面ぎりぎりだったので、なんでだろうと思ったのですが、池は隅田川とつながっていて、潮の干満で水面のレベルが変化するのだそうです。

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2008年6月2日

8人の女たち

赤羽の給水塔

映画「8人の女たち」は、ただ楽しむためだけに、昔BS2で放映したときに録画したのだが、なんとなく2回観てしまい、「なかなか深い映画だな」と感じ、母も2回目(以前観たことを忘れていたらしい)を観ているときに、僕がちょうど居合わせて、3回目も観たものだから、もう想い返さないように、ここに記録しておく。

観ようと思った直接のきっかけは・・・・すっかり豊満になったカトリーヌ・ドヌーブを興味本位で見たかったわけではなく、トリュフォーの最後の恋人ファニー・アルダンが出演しているからでもなく、メイド姿のエマニェル・べアールが脱ぎそうな気配を感じたからでもない・・・・とは言い切れない。そんなところがこの映画のいいところである。

ストーリーは、大雪により邸宅に閉じ込められた8人の女たちのイライラから生じた諍いにより進行する。すなわち、女たちが互いに中傷、誹謗、暴露、告白、密告、偵察をし合い、ゴシップとスキャンダルにまみれるのである。女たちはそれぞれ秘密を持っているのだが、ディープな上に、2段構えであり、どちらかというと知りたくもないようなおぞましいものである。たとえば、浮気している上に、お相手は××とか、旦那のお相手をしているんだけど、本当は奥様を恋慕しているとか、妊娠しちゃったんだけど、そのお相手は××などなど。実際、この過剰なインフォメーションが悲劇(喜劇?)へと向かっていく。

実はこの作品は、ミュージカル映画であり、出演者は全員女で、明るく華やかで軽やかである。汚れた女たちの歌う歌詞の内容は、彼女たちを浄化させる。

「幸せは 強く抱きしめすぎると 壊れてしまう」(だったと思う)

ダニエル・ダリューがラストに歌う詩は、箴言にまで高められている。内容とは似ても似つかわない表層、これがこの映画の魅力であり、女の魅力なのかもしれない。

今日の写真
昨日、久々に街歩きをしました。赤羽周辺の団地の給水塔と思われるもので、古いものなのですが、良くデザインされています。似たようなものは他にもありましたが、これは展望台付です。

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2008年5月23日

ストーカーを観て

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今年の3月、川口メディアセブンでタルコフスキー特集が組まれた。上映作品は「僕の村は戦場だった」、「ストーカー」、「鏡」、「惑星ソラリス」の4本。「鏡」は護国寺のお茶会と重なり観に行けなかったが、他の3本は観た。タルコフスキーは、ヴェンダースが敬愛する映画監督(他にトリュフォー、小津安二郎)のようなので、以前より作品を観たいと思っていたのだ。まず「惑星ソラリス」を観たいと思った。原作「ソラリスの陽のもとに」は人間の最も弱い部分をえぐり出した小説で影響を受けた作品でもあったし、ソラリスがどのように表現されるのか興味があった。この作品はソダーバーグ監督の作品と見比べてから感想を述べたい。で、今回の取り上げたストーカーだが、

上映が始まり、タイトルがキリル文字で

Сталкер

と表示されたときは、オォーッと思った。

それはさておき、この映画は、ユートピアを思考する物語であるが、簡単にまとめると、「ゾーン」と呼ばれている立ち入り禁止区域があり、「ストーカー」と呼ばれる案内人の男が依頼人の作家と教授を連れて「ゾーン」に侵入する。「ゾーン」内には「部屋」と呼ばれる場所があり、そこへ行けばなんでも願いが叶うとされている。3人は「部屋」目指し、入口にたどり着くが、結局誰も部屋に入らず、「ゾーン」から帰る。

「部屋」とは人間の欲望を物質化する装置である。映画のなかでどの役が話したのか忘れたが、こんな逸話が紹介される。「ある男が、死んだ弟を生き返らせたいと思い、『部屋』へ行ったのだが、弟は生き返らず、金持ちになっただけだった。その男はショックを受け、自分を責め、自殺した」と。「ソラリス」も人間の欲望を物質化するが、「部屋」はより醜い欲望を現出させるようである。しかし、欲望が満たされることで、逆にその人間の精神が参ってしまい、自死に追い込まれるという点では一致する。

人間とは何か?をひたすら問うタイプの映画なので、ストーリー重視の人にはお勧めできないが、演出、映像ともに心に残る映画だった。「ゾーン」への侵入や、「部屋」へ向かう道のりは、宗教的な儀式のようで、観客の哲学的思考を美しい映像とともに深めてくれる。

映画を観た後、妻が図書館で借りてきたタルコフスキーの著書「映像のポエジア」には、ベルイマンの作品に関する言及が結構あった。ベルイマンやヴェンダースが好きな人には、ものすごくオススメです。

今日の写真
「ゾーン」は湿っぽく、油やゴミが流れる小川がある。なのになぜか美しい。・・・イメージして撮ってみました。

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2005年12月20日

たまゆらの女(ひと) その2

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その1での友人と私の会話は、映画からずれていったり、また戻ったりを繰り返した。ここでは映画と関係のない会話は省略し、話を進めることにする。

「まあ内容はともかく、その女と詩人の恋愛物語なのね。ふたりはどのように出会うの?」
「女はダンスパーティーで詩人と会ったんだ。変なパーティーなんだけどそれはいいとして、そのとき隣に座っていた詩人からもらった詩に心を奪われてしまい、遠くに住む彼に会いに行く」
「で、付き合うようになるのね」
「そういうこと。しかし彼女の愛が強すぎて、詩人にはそれがだんだん重荷になってしまうんだな。汽車で10時間も掛けて週2回も通ってくるし、彼の詩集の出版に尽力したりとかね」
「よくそんなに時間を作れるね。彼女は何をしているひとなの?」
「陶器の絵付師・・・・」

陶器は硬く半永久的に長持ちするが割れやすい。
何度か映画の中で彼女の作品が割れる。
詩人は青磁を『君の肌ようにやわらかい』と詠む。

「映画の中で陶器は彼女を表すのね」
「まあ、そうなんだろうな。物語を予感させもする。話が進むにつれてだんだん彼とのすれ違いが広がっていくんだけど、彼女は通い続ける。そして心労と疲れから、列車の中で倒れてしまう・・・」
「私みたいね」
「君の場合は倒れたわけじゃないでしょ?」
「心のせいかな・・・・でも身体もね」

列車内で倒れたときに知り合いになった獣医と一緒に仙湖を探しに行く印象的なシーンがある。仙湖というのは、詩人の彼が彼女のために書いた詩の中に詠われる美しい湖なんだよ。女はその詩をとても気に入っていた。しかしその湖は存在しないことがわかる。

「詩人はウソをついていたってこと?」
「そういうわけではないけど、それが彼という人間であるってことだろうな。彼女は詩人に裏切られたような哀しい気持ちになってしまう。あると思っていたものが実は無かったからね」
「形あるものを持たないのは不安よね」

言葉と異なり、詩は社会性というか客観性というか独立性を持つ。プライベートな関係の中で送られたとしても、ふたりのあいだで交わされる会話と違い、詩はふたりの手から離れた存在なのだ。その詩は美しく愛に満ちているが、そこに描写されていた湖は虚構だった。彼の愛もそうなのだろうか?

「これと逆の立場のシーンも印象的なんだ。詩人は女に尋ねる『僕が好きなの?それとも僕自信?』とね」
「女はなんて?」
「『私が好きなのは詩人なの』と答えるんだ」
「どういうこと?」
「おそらく女は男自身も、男の書く詩も両方とも好きなんだ。どちらも本当に愛している。しかし詩人は素直にそうは取らない、というより取れない。この感覚わかるなぁ」

まだ自分の詩は世間に知られていないかもしれないが自信はある。女は男の詩に惹かれた。だが男として、人間としてはどうなのか?人は自信の無いところこそ本当は愛されたいのである。

「確かさを求める恋愛は終わりが近いのかな?」
「そうとも言えるね」
「そんな時は自分のことも、相手のこともわからなくなってしまうよね。だから?」
「そうなんだろうな・・・・この映画で恐ろしい言葉がでてくるよ」

人を愛することは自分を鏡に映すことだ

(もう一回つづく、と思います)

関連記事> たまゆらの女(ひと) その1

今日の写真
夜中のペットショップ。金魚はまだ起きていました。

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2005年12月13日

たまゆらの女(ひと) その1

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「最近観た映画で面白かったのは何?」

久しぶりに会う友人と一通りの身辺報告の後、こんなを質問された。彼女は体調を崩していたので、私と映画の話をやり始めたら熱くなって疲れてしまうだろう。それならば穏やかな内容のタイトルを言えば良かったのかもしれないが、そうは答えずに『たまゆらの女』と答えた。観ていれば何か話してくれるだろうし、観ていなくても私があらすじを話せばきっと気に入るだろうと思ったからだ。

「どんな話?」
「遠距離恋愛もの」
「昔の私みたい。それともあなたかしら。どのくらい離れているの?」
「列車で10時間。それを週2回、女の方だけが通うんだ」
「私は5時間だった。あなたは?」
「7時間。でも月1回だったな」
「今じゃ無理!でもいいなぁ!ほら、乗り物に乗っていた時間が長いほど想いが凝縮されて相手に向かっていく感じ!」
「あまり思い出せないけど・・・・・」
「あらら古傷ほじくっちゃった?でも、なんでそんな難しいやり方を選んでしまうのかな?」
「選んだ訳では無いんじゃないかな?確かに若いころは困難な愛にあこがれるところもあるけど」

「でも、一緒に暮らさないことは良くないことなんじゃない?そんな生活をしていたらそのうち身体を壊してしまうし・・・・・」
「実際、映画の中の女も倒れてしまうんだ」
「やっぱり!」
「でも、これをきっかけにもうひとつの愛が始まっちゃっうんだな・・・・・」
「美人なのね。その女の役は誰?」
「コン・リー。知ってる?」
「知らない」

「陶器の絵付師の役なんだ。なんとなく小雪に似ている。ショートヘアの役の時は山口百恵っぽい」
「ちょっと生意気な感じ?」
「そう、こましゃくれた感じ。そして恋人役はレオン・カーフェイ、詩人の役」
「詩人?誰?」
「ほら、『愛人(ラマン)』のジェーン・マーチの相手役」
「あぁ・・・・・。この映画もあんな感じなの」
「ある意味では。似ているシーンもあるね」
「たとえば?」
「縦格子から夕日が差し込む部屋の中で情事に耽けるふたりにショロンの雑踏の騒音が重なる『ラ・マン』のシーンと、詩人の部屋で情事に耽るふたりに火車–中国の特急列車のことだよ–の騒音と車窓の風景が重なる『たまゆらの女』のシーン」
「なんでそういうシーンは細かいところまで覚えているのかな」
「興味無い?良いシーンだし、どちらもすごく凝ったカットだから必見だよ」

(つづく、と思います)

今日の写真
新宿御苑。昨年の今頃か、もう少し後。冬もいいものですよ。

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2005年11月2日

世にも快気な物語

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久々に映画を観た。観た!といってもオムニバス映画である。それはそれは恐ろしいポー原作のお話である。題名は「世にも怪奇な物語」(1967仏)。

その後、この作品を含め、何枚かのDVDを知り合いのご夫婦(W氏&F夫人)にお貸ししたのだが、彼らはこの映画が一番面白かったようで、ふたりともこの映画の感想を述べてくれた。彼らはこの映画の本質的な面は理解していたので、マジメな映画評をするような野暮なまねはせず、キャスティングの魅力のみ、なかなかマニアックな視点での感想を話してくれた。その感想がそれぞれ男の立場と女の立場に分かれたのが可笑しかった。では彼らの感想に聞き耳を立ててみよう。
(注・・・・かなり脚色されていますが、インタビューの本質はずれていないと思います)

第一部「黒馬の哭く館」 監督ロジェ・ヴァディム
ロケーション:某写真家のオープニング・パーティーにて。
F夫人:「いやーもうー、女の人が本当にキレイで・・・・・」
hyodo :「ジェーン・フォンダですね」
F夫人:「そうそう、キレイな女性が悪徳の限りを尽くすのって・・・・イイですねぇ」
hyodo :「暇つぶしに少年を木から吊して、弓矢の的にするシーンとか?」
F夫人:「そんなこと、今では許されませんよね~」(と言いながら嬉しそうな表情)
hyodo :「昔もダメだと思うけど・・・・・でもジェーン・フォンダなら許されるかな」
F夫人:「彼女は本当にセクシーで素敵!」
hyodo :「常におへそまわりは露出してるし、ブーツは履いていても腿は見せていますね」
F夫人:「マントの下は下着みたいのしか着ていないし・・・・・」
hyodo :「そうそう、そのマントだけど豹の毛皮が裏地になっていて暖かそうだった」
F夫人:「イイィですねぇ!私、ああいう耽美な世界、大好き!」
hyodo :「・・・・・・」

第二部「影を殺した男」 監督ルイ・マル
ロケーション:W氏の経営する店舗にて。
W氏 :「鐘楼からアラン・ドロンが落っこちて死んじゃう話が面白かったです」
hyodo :「ウィリアム・ウィルスンですね」
W氏 :「そんなタイトルでしたっけ?自分の分身に悪行を暴露される話です」
hyodo :「原題は『ウィリアム・ウィルスン』っていうんです」
W氏 :「主人公の名前がウィリアムでしたね。ウィリアム役のドロンもいいけど、あのブリジット・バルドーが・・・・・・」
hyodo :「やっぱり、あのシーンですか?」(ニヤニヤ)
W氏 :「そう、あのシーン・・・・・・ヤバイですよね」(ニヤニヤニヤ)
hyodo :「ドロンがバルドーにピシピシ笞打つなんて・・・・・・第一級のお宝シーンでしょ!!!」
W氏 :「hyodoさん、声大きい、他のお客さんに聞こえちゃうんで、お静かに!」
hyodo :「スミマセン・・・・・」

第三部「悪魔の首飾り」 監督フェデリコ・フェリーニ
残念ながら、これについては話しませんでした。気軽に話すにはテーマが重いですし。あの少女役の女優は誰でしょう?美しいけどかなり怖いですね。ゾッとします。

今日の写真 ~カラフル その9~
金沢は里見町(だったと思う)で見かけた花とタイルの色の競演。カラフル・シリーズは今回で最後です。新シリーズもお楽しみに。

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2005年5月13日

「夜霧の恋人たち」を再び観て

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1968年仏、監督トリュフォー。

HDビデオレコーダーの整理をしていたときに、この作品を見つけた。一度観たはずなのに消去していないということは、「面白かったからDVDに焼いて保存せよ」ということだ。しかしどんな映画だったのか思い出せなかったので再生ボタンを押した。オープニングの歌が流れ出すとすぐに思い出した。

残されし恋には、私たちの恋には ♪
あの美しい日々の何が残っているのだろう・・・・・・♪

この歌の詩がこの映画のすべてを表している。
ランデヴーが4月でなくても、小さな村や古い鐘つき堂の思い出はなくても、似たような記憶ならいくらでもあるだろう。そのときに感じた喜びや怒りや悲しみは、時とともにだんだんと色あせて、はかなさと切なさだけが残る。この映画はそうして心に刻まれた想いの集積なのである。いつどこから観ても引き込まれる作品。去年も観ているはずだが、忘れていたのは同じ時期にトリュフォーの作品「突然炎のごとく」が私に忘れがたい大きな影響を与え、こちらを何度も何度も観ていたからである。でも「夜霧の恋人たち」は今年観た映画 No.1 である。シリーズ作品のようなので、他も鑑賞しようと思う。

俳優もみどころ。ジャン・ピエール・レオの無責任な役回りは、いい加減さにしても、若さによる拙さにしても、役と現実のレオの振る舞いが重なるようで目が離せない。デルフィーヌ・セイリグは台詞で美しさの秘密を告白してくれる。クロード・ジャド!手綱の取り方がめちゃ旨い!

ファッションはゴダールのようなコントラストの強さはないが、かわいらしく、今でもそのまま通用します。普段の着こなしの参考になること間違いなし!

※今日で倉庫の写真はおしまい。次回より新シリーズです。お楽しみに!

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