2009年3月5日

無印良品の家 『朝の家』 に思うこと

綱島家
昨日、無印良品の家のメルマガからサイトのほうを見ると『朝の家』という新しいラインナップが目に入ってきた。この一般的な建売住宅とたいして変わらない『朝の家』を見ていろいろと考えることがあった。「無印もここまで来たか」というのが僕の正直な感想だ。

一昨日、無印から「家と家の場所についてのミニアンケート」というメールが来ていたので回答した。アンケートの主な内容は、「戸建てとマンションのどちらに住みたいか?都市と郊外のどちらに住みたいか?」というものだったのだが、その設問がやたらポジティブというか、売る側に都合のよい文脈で都市や郊外を捉えている内容だったので、ちょっとウンザリしていた(これまで下着や収納等に関するアンケートに協力したことがあるのだが、それは新しいコンセプトで様々な消費者のニーズにも答えるような商品を開発したいという意気込みが感じらる内容だった)。なぜなら無印は都市と郊外を次のように定義していたからだ。

都市:住むと交通の便もよく、通勤だけでなく外食したり買い物に行くのも便利です。(各設問では、商業施設や病院、学校などの施設が多い娯楽施設など遊ぶ場所が多いなど)

郊外:通勤には多少時間がかかっても、緑豊かな自然の中で過ごすことができます。(各設問では、空気もきれいで、緑が多く、自然が豊か、緑や水辺など自然環境がよい、郊外の方が安心して子育てができる、ペットなども飼いやすい、静かでゆったりとした環境に住め、騒音や日当たり、近隣問題に比較的悩まされにくい)

都市を肯定的にとらえ、多くの問題に目をつむればそのような認識になるかもしれないが、無印が考える郊外はいったいどこを想定し、どんな幻想を抱けばそんな認識になるのだろうか?19世紀末のロンドン(ハワードの田園都市)の時代ではあるまいし。アンケートなんだから、消費者の都市や郊外に対するイメージのリサーチもすればいいのに、そんな安っぽいことを前提にして無印のイメージ・ダウンになるよ、と言ってあげたかった。

もし無印良品の家で宅地開発をすれば、MUJI的なフィクショナルな街が出現し、そこに住む人たちのライフスタイルが、他の大手開発と比べても圧倒的にMUJIに近似して表象するだろう。そういった意味では無印の家の開発地域は、国道沿いのジャスコやファミレス、TSUTAYAやケータイ・ショップなどが林立するハードな現実と向き合った郊外ではなく、MIJI的幻想を再生産し続けることができるように、「緑が多く、自然が豊か」な書き割りで現実を隠したシミュラークル的郊外でなくてはならない。しかし、そういったことをふまえて都市や郊外を論じていないことに問題があるのである。単に僕がそれを読み取れなかったのなら、それでいいのだが・・・。

そんなわけで現実の社会を見つめる者としては、MUJIの都市・郊外の認識に関しては甚だ疑問抱かざるを得なかったが、『朝の家』のアーキテクチャは、『木の家』、『窓の家』と比較してポストモダン社会と妥協しながら生活していく様式が整えられている、とも言える。商品化住宅として、戦略的に良く考えられているのである。

ところで、『木の家』と『窓の家』はMUJIのファン層の厚みの割に売れなかったのだろうか。『木の家』は、大変優れた設計思想とハードウェアを持つ『箱の家』をベースにしている住宅だが、設計者の意図とは離れて、家族の理念モデルがいわゆる家父長的家族が想定されているように見えることがあり得るため、ポストモダン的な荒々しい郊外に住む個人化したMUJIファンには敬遠されたのだろうか。もう一方の『窓の家』は、そのコンセプトに精神的な豊かさを求めることを本気で取り組んだため、MUJIファンの現実的な興味から離れていってしまったのかもしれない。また『木の家』と『窓の家』は結局のところ、オルタナティヴな居住施設の提案であり、政治的・消費的な住宅政策・宅地開発からは距離を置き、国家を支える「家族」という生活単位に不信を抱いているようにみえる。また、『木の家』と『窓の家』の設計者を少しでも知る者ならば、「家族」という問題に対して近代的核家族のイメージを批判することはあっても、ベタな家族像をあえてでも肯定することはないであろうことは容易に想像できる。その証拠に『木の家』と『窓の家』のウェブページには「家族」という言葉は使われていない。

その点『朝の家』は、現代では多義・多様化してしまった「家族」をリビングアクセス型プランよって、近代的核家族のイメージに引き戻す戦略を採った。また、若い核家族向けであることを強調することによって高齢者・介護問題を免れながら、2階に個室群を配して家族の流動性・個人主義には対応する、というポストモダン社会の「家族」に適応したアーキテクチャであろうとしている。先に僕が批判した無印の都市・郊外の認識が見当違いだったり単なる戦略であったとしても、消費者は、無印の良き都市・郊外のようなイメージを欲しているである。なぜなら核家族像をあえて虚構することによって「普通の家族」を装うことができ、高齢者問題に目を背け (これはもっと大きな問題なので言いすぎだと思いますが)、古典的な概念では普通ではない多様な人の集まり――「現実の家族」――も収容できる、というようなスペックをポジティブに飾り立ててくれるからである。これなら安心して長く暮らせそうだ。既に、郊外型宅地開発向けにMUJIファンだけでなく広く受け入れられそうなMUJI的シミュラークル・シティ (ユーカリが丘。2戸だけなのでMUJI的共同幻想は成り立たないだろうが) が販売されている。・・・・・たぶん売れるだろう。

さて、いろいろ好き勝手書きましたが、軒樋の納まりなんかはキレイですし、一階のサッシとバルコニーの関係も良くできていると思います。

今日の写真
江戸東京たてもの園にある綱島家です。こうやってあらためて見ると茅葺の古民家ってモダンで本当に美しいですよね。

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カテゴリー:建築 |  コメント (2) |  投稿者:hyodo

コメント


どらみ

子供のころ、秋に爺さんちにいくとね、
里の男集が爺さんちの茅とりかえてくれてて
順繰りに取替えあいっこしてました。
古民家って、家族のためコミュニティのために
実に良く洗練されてたんだなぁと、
お写真見てて、思いました。

2009年3月5日 @ 10:48 PM

どらみさん、おはようございます。
おぉ!結いが残っているんですね。
結いがあるよなコミュニティは
福祉・介護問題も解決できる可能性が高いと思います。
残念ながら、そういったコミュニティはなくなり、
荒々しい均質空間としての郊外が広がっていくことでしょう。

2009年3月6日 @ 9:59 AM

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