2009年1月30日

「アーキテクチャと思考の場所」を聴いて―その2―

昨日途中になってしまったシンポジウムの備忘録の続きです。パワーポイントの画面が見えなかったり、ライブ映像が途切れたりなどありましたが、めげずに視聴覚教室から講堂へ移り、あふれる聴衆をかき分けながら、最後尾に立ちながら続きを聴きました。メモはかなり途切れがちなので不明点が多い点はご容赦ください。

その1の記事は、こちら

磯崎:・・・・(そんなわけで前半の話不明)・・・・建築家と名乗ることの気恥ずかしさウンヌン・・・・・「プロセス・プランニング論」は大分図書館の設計が終わってから書いた。これは事後的であり、こじつけとも取れる。富士見カントリークラブの設計はゴルフもやらない人間(磯崎)が設計したにもかかわらず評価された。わからない者がわからないことをやる、しかし事後的合理性があったりする。(ここからは筆者の想像だが)建築はプレ的に設計されているように見えるが現実的には全然そうではなく、むしろ濱野氏のいうネットワーク・アーキテクチャの生態系と位相的に同じものとしてとらえることもできる。アーキテクチャとは何かというとだが、、近年では世界銀行総裁のような人などはメディアに”Architect”として登場するわけで、建築、コンピュータ、社会システムなど何かしらのシステムの構築にかかわるものはすべてアーキテクトとなってきているから、その意味が拡大していくことによって、アーキテクトが消滅するのでは?と感じている。
(ここも筆者の想像だが)このシンポジウムでのアーキテクチャ、アーキテクトの使い方は、多様な意味を持ってきたこの言葉を、無理に統合しようとしているように感じるので、再定義、整理の議論が必要である。

東:・・・・有限責任会社ABC、デリダがウンタラカンタラ、無限のコミュニケーションがナニガシ・・・・では宮台さんお願いします。

宮台:このシンポジウムは失敗なような気がする・・・・。まず昔と変わっていない点として、正しいとか公正であるというような再配分できない議論はやっても意味がなくて、(倫理感情ではないレベルで)社会秩序を設計し、そこで起こる行為を(事後的に)分析・観察することでしか意図せざる結果に対応できる社会システムは作れない。そういった社会を作るための秩序設計が求められている。リスクは予測、計測、収集が不可能なので市民政治による合意でそれに対処するしかない。ネットワーク世界が自然生成的に見えるなどの自立性・予測不可能性については金融工学の世界ではとっくにわかっていて、リスクを(証券化などで)分散してもむしろ増大してしまう。最初に「このシンポジウムは失敗だ」と言ったのは、何だか空回り感があるからで、アーキテクチャの議論がトライブ化しているように感じられたからだ。またロスジェネ世代の批評家の言論に公共性が感じられないからでもある。・・・・空間経済学的には非正規雇用を禁止することは国民の首を苦しめるだけのことは(識者たちには)最初からわかっているが、最も効果的な政策を提示しても合意が得られず、ポピュラリティによる合意でしか決定していく方法がないことである。・・・・新しい変数がウンヌン・・・・

浅田:僕はこのシンポジウムは成功していると思う。新鮮な気分で聴いていた(本当か?)(今までの話をまとめ気味に)ポストメタボリズムである磯崎氏の大分図書館は切断と死、濱野氏はそれを切断しない。磯崎氏はアーキテクチャの自立性をペシミスティックに捉えるのに対し、コールハースは規則ある無秩序が面白いというシニカルな立場である・・・・

・・・・このあたり浅田、東のバトル・・・・

東:webの自立性、自然生成性が議論の・・・・宮台さんに公共心が無いとか言われて黙ってられない・・・・

・・・・このあたりもバトルだったような気がする・・・・

濱野:ヒロユキはウェブサービスを構築する時に「都市を作りたい」と言っていた・・・

宇野:宮台さんは全体的な知、東さんは分散的な・・・・

・・・・この辺りから濱野氏も加わり、議論の中心はヒロユキの意図せざる公共性について展開というかむしろ収束し、それを語る本人も自分がヒロユキのことを議論してしまうことに対してもどかしい様子。

磯崎:グレッグ・リンの自然生成し変化していく建築を(いつ誰がどのように)切断するのかについての話題。

東:どこで切断するかは、自然生成されていく過程をログに取れば過去に戻って決定することもできる(というようなこと)

宮台:(何度も映画メメントの主人公を例えにしながら)僕たちは、もはや切断が認識されない社会に住んでいる。

東氏、まとめに入るが、濱田、宇野の言ったことはよくわからなかった。

磯崎:(少々無理やり建築の話題にシフト)磯崎アトリエでも製図台が無くなって久しいが、CAD化に対しての一番の問題は、現実の建材の重さを感じずに設計が進むことにある。CAD図面はあれほど整合性がとれているように見えるのに、現場に入って初めて製作最大寸法や最大揚重を考慮してなかったことによる問題が認識されるということが非常に多くなっている。(筆者の想像だがこんなことを磯崎さんが話したのは、今日の議論はなんだか観念的だったし、磯崎さん自身もそういう話題は得意だけど、アーキテクチャを思考するということは、軽視されがちな生々しい現実と繋がっていなければ上手くいかないんじゃないの?」ということのように感じた)

浅田:アメリカのようにネットが政治的な影響力を持ちすぎるのは大問題で、日本のようにネットの影響力はヒロユキだかなんだか知らないけど、そういうネタ的なところでとどまっているというのは、むしろマシなことなんじゃないの的なことを最後に話して、「家が京都なので今帰らないと帰れなくなってしまうので・・・」と言って舞台より立ち去る。

宮台:(なんだかどうでもよくなってきたようで)初音大好き!を連発して、今日の発言をすべて投げ出し、東氏に最後を託す

東氏による締め。---拍手喝采---
という感じで、大変盛り上がり世界文明を満喫したシンポジウムでした。

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カテゴリー:コンピュータ, 建築 |  コメント (1) |  投稿者:hyodo

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